もし、レイ・チャールズが失明しなかったら。。。

昨夜、NHKの海外ドキュメンタリーで、「ソウル・ディープ」という番組を見ました。ブラックミュージックの変遷と発展を追うシリーズの第1回目でした。

タイトルは、「ソウル・ミュージックの誕生」

そこで中心に取り上げられていたのが、レイ・チャールズでした。

ご存じの方も多いでしょうが、レイ・チャールズは盲目のアーティストで、ピアノを弾きながら歌います。

レイ・チャールズは、2,3歳の頃に視力が弱くなり始め、7歳頃に完全に視力を失ったそうです。そして、盲学校に通います。その中でピアノと出会い、その魅力にとりつかれ、ピアノの虜になります。

目が見えませんから、練習も大変です。左手で点字の楽譜を読みながら右手の練習をし、次は、右手で点字の楽譜を読みながら左手の練習。そして、最後に両手をあわせて練習するというやり方で、ピアノを練習していったそうです。

そして、様々なジャンルの音楽に親しみ、どんどん吸収していきます。そして、ゴスペルとリズム&ブルースを融合した独自の世界、のちにソウル・ミュージックと呼ばれるスタイルを確立していくのです。

さて、今日のタイトル。

もし、レイ・チャールズが失明せず、ずっと視力を保ったままだったらどうなっていたのか。

そんなことを考えても仕方がないのですが、ちょっと気になりました。

目が見えれば、もっと偉大なミュージシャンになれたでしょうか?

もっと苦労をせずに、今日の地位を築くことができたでしょうか?

それとも、また違った道を歩むことになったのでしょうか?

答えは、分かりません。

でも、ひょっとすると、これだけの偉大なミュージシャンにはなれなかったのではないかと思います。

なぜなら、目が見えれば、ピアノや音楽以外のことに興味を奪われたと思うからです。

外で遊ぶこともできます。スポーツもできます。

絵を見たり、描いたりすることもできます。

自転車にも乗れます。大人になればバイクや自動車も運転できるでしょう。

五体満足で、何の制約もなければ、いろいろな可能性があります。でも、可能性が広すぎて、あちこちに手を出しすぎ、結局どれもこれも中途半端になる。そんなこともあります。

幸か不幸か、レイ・チャールズは7歳頃に失明しました。好奇心旺盛で、吸収力のある時に、視力を失って、音の世界にのめり込みます。

音の世界だけでいえば、視力がない方が、かえって感覚が研ぎ澄まされるかもしれません。

目が見える人でも、よく聴こうとするときは目を閉じますよね。

また、点字を読みとることでもわかりますが、指先の感覚も、一般の人よりも鋭敏なのではないでしょうか。目の見える私は、点字に触れても、ただ凹凸があるだけで、その違いを認識することはできません。

もちろん、訓練次第で読みとれるのでしょうが、その訓練をする必然性がないので、訓練もしません。従って、指先の感覚も向上しません。

鍵盤を弾くときも、目が見えないからこそ、指先の感覚が鋭敏になるということもあるのではないかと思います。

失明するということは、ある意味では不幸なことです。多くの人は視力があるのに、それがないわけですから。

でも、考え方によっては、それがよかったのかもしれないともいえるのです。

時々、ある道を極めた人がいいます。

「自分は、これしかできないから。。。」

いろいろな可能性、幅広い可能性があることは素晴らしいことです。

でも、その可能性が閉ざされても、一つのことを掘り下げていくという道は残っています。

どちらがよくて、どちらが悪いというものではないでしょう。

ものは考えようで、良くも悪くもなります。

大切なのは、今、与えられている状況の中で、どう生きるか。

人から見れば恵まれない状況であっても、それを生かすこともできるわけです。

それもこれも自分次第。

現状を嘆くのではなく、与えられた状況で精一杯やるべし!

番組を見ながら、そんなことを考えってしまった私でした。

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